FUNKY'S HIGH about funky. My roots
 
一宮

「そうだ、一宮へ行こう」
2002年の春、横浜からバイクを走らせた。
名古屋市の北にある一宮市へ。

真清田神社。
尾張一宮駅からすぐの、その神社の、そのすぐそばに、オレのルーツの一つがある。
何となく、ここか?と感じられる所があった。オレの中に流れている「血」が、そう感じさせた。
父方の祖母の、最初の旦那。戦争で亡くなったらしい。
オレには、その家系の血が流れている。
今では、その家系がどうなっているのか、知りもしないが。

ただ、行ってみたかった。オヤジが、幼少の頃、どんな所で遊んでいたか。
オレに流れている血が、自分のルーツを知れ、と、言っているような感じがしたから。

一宮に、オレのルーツの一つがある。それを知る前、名古屋近辺を通った時、不思議と懐かしい気持ちになった。
その時は、人生で初めて見る風景に、なぜ、そんな感覚を覚えるのか、疑問に思っていたが。

オレが、田園風景が好きな理由が、解ったような気がした。

室蘭

ここで生まれた。
白鳥台。ここで育った。
ただ、1歳くらいまでの話し。
だから、記憶には全く残っていない。
いや、残っているのかもしれないが、想い出すことは出来ない。

祖父母は、父方、母方とも、室蘭に住んでいた。
だから、子供の頃は、よく遊びに行っていた。
夏も、冬も。
不思議と、楽しい想い出しかない。温かくて、心地イイ想い出だ。

祖父母の家からの帰り、車の中から見る国道36号線の風景が、とても淋しくて、イヤだった。
いつも帰りは日曜の夜。冷えた家の中の、点けたばかりのストーブの前で、楽しかった週末を振り返ってたっけ。

母方の祖父の墓が望洋台にある。今でも毎年お参りには行ってるんだけどね。
独りでバイクを走らせて。


苫小牧

灰色の街。

いつからだろうか、その印象しかない。
もちろん、他にも色はあるが。

幼少期から、24歳まで、ここで過ごした。
狭い公営住宅で、2段ベッドで過ごした夜。
目の前の公園で、鬼ごっこをしたり、パッチをしたり、野球をしたり、雪だるまを作ったり。
おふくろに叱られて、裸足のまま外に放り出されたことなんて、何回あるか。

小学校1年の頃、建売住宅の新しい団地へ。
広い庭と広い部屋。ピアノを弾いても近所迷惑にならない。
10m西は林、300m北は山、3km南は海。
とにかく冒険しまくった。トムソーヤが好きだった。
ひよこを丸飲みしてるヘビ、山奥の源流で遭遇した熊の子供、白いオタマジャクシ。
冬には吹雪の中で遭難しそうにもなった。家まで500mの距離なのに。
でも、自然の中では、都会のガキなんかには絶対に負けないね。

高校は街の反対側。自転車で30分以上かかる。まあ、そのうちバス通学にしたけど。
当然頭はリーゼント。田舎の工業高校じゃ、普通なんだけどね。

卒業後、地元の製紙工場へ。
ボロい独身寮へ入り、三交替の日々。
高校の頃から車が欲しかった。S13シルビア。
頭金を貯めて、新車で購入。そして走り屋に。
かなりテクは上がったが、事故も結構。修理代100万以上をキャッシュで、なんて事もあった。
でも、あっけなく止めた。

その頃かな?灰色の街ってイメージが出てきたのは。
社会を少しずつ知り、行動半径が大きくなってきた時、自分の住んでいるこの町が、いかに小さくて、そして、つまらないところかを、実感してしまった。
遊びも限定、価値観も限定。
朝から夜までパチンコで、憂さ晴らしにスナック。いい加減にしてくれよ。

そんな価値観から離れたくて、独りでバイクに乗る機会が増えた。
車では北海道1周を済ませていた。とにかく走り回ってたから。
で、次はバイクで。

楽しかった。
でも、物足りなかった。
もっと遠くへ。

仕事も物足りなかった。
恋愛でも悩んでいた。遠距離だった。
人生の中で、ほとんど誰もが体験するであろう事なのかどうか、それは解らないが、自分の中では、今までにない大きな壁だった。
もっと広い世界へ。

23歳の秋、灰色の街から、出る決意をした。


川崎

羽田へ降り立ったとき、水の匂いがした。
川崎市宮前区宮崎。
新しい生活が始まった。
灰色の街とは一変して、色のある日々。
本社勤務、夜間大学。
毎日毎日、スーツで満員電車に乗り、競争するかのように早歩きで進む。

独身寮は新しく、非常に快適。
休日には近郊探索。バイクで遠出も。

全てが新鮮で、全てが魅力的で。

初めの頃は、仕事上では無力。でも、その壁を破ることが出来た。
その後は順調。大学の成績も良好。
新しい仲間とも楽しい日々を。
新しい彼女とも順調。でも超ワガママ。

そんな楽しい日々は、4年の期間限定。結局彼女とは別れ、そして、大学も卒業。
残務があったので、半年間期間延長。

ホント、楽しかった。成長も出来た。


釧路

灰色の街。
苫小牧と同じく、そんなイメージがつきまとう。
人通りの無い駅前通。
街の景観を考えない作り。
パチンコとスナック。
またかよ。

東京での生活で、多様化した価値観に順応してしまった自分には、北海道の地方都市、それも、道東の辺境の地であるこの町と、保守的な業界の保守的な地方の工場は、とても退屈だった。
唯一、新しい仲間が、そんな時間を忘れさせてくれた。

霧の街、釧路。冬が終わって、春の日差しを楽しみ始めた頃、霧が出てくる。
とにかく霧。
外の世界から隔離するかのように、霧で覆い尽くされる。
その中に住んでいる人間の、自由を許さないかのような。

冬は雪と氷の世界。スノボーするには北海道はステキな所だが、バイクに乗れない日々は、苦痛以外のなにものでもない。
苫小牧時代に、北海道はほとんどまわってしまった。
だから、この土地で過ごす日々は、苫小牧での日々と、そう変わりないもののように感じた。


新しい風を吹かせたと思う。
仕事上でも、プライベートでも。

やっぱり足りない。
もう一度、広い世界へ。
自分自身の手で。

2001年の春。
再び。


横浜

憧れの地の一つ、横浜。
なんでかって?
だって、カッコイイじゃん(藁!

川崎時代に通勤で利用していた田園都市線。この沿線がイイ。
ただそれだけの理由だ。

住処の近くは結構な高級住宅街。クリスマス時期にはイルミネーションをする輩が多い。
でも、治安はイイし、静かだから、バイクにはイイところだ。

ただ、無職の人間が独り暮らしするには、キビシイ土地でもある。
まあ、最近働き出したので普通に暮らしてはいるが。

そんな横浜の、でも、横浜駅よりも渋谷駅が近い青葉区での生活も4年。
駐車場は屋根付きで便利、でも、部屋が狭くて。

「そろそろ、動き出してもいいんじゃない?」

だから、一気に。


湘南

この土地に憧れている。
20歳の頃から。

「いつかは、ね。」
そう考えていた、湘南。
2005年3月。新しい生活を始める。

物件はこだわった。駅まで徒歩10分以内。線路より海側。
最初は古い平屋を探していたけど、今の時代、駅近くの平屋は、日当たり悪く、ちょっと怖い。
不動産屋のおばちゃんが持ってきた平屋じゃない物件。「とりあえず」見に行って、で、決めてしまった。
窓が多くて、明るい部屋だったから。夏に窓を全部開けると、風の通り道になりそうだったから。

出張の多いオレにとって、駅まで7分はナイスな距離だ。
そして、海まで、歩いて10分。
自分の所有物じゃないけど、とりあえず、10年以上前から「住んでみたかった」湘南で。

いつからだろう、自分の住む環境によって、人生が変わると思い始めたのは・・・。
まだ若く、自分の日々過ごしている環境しか知らない自分は、そんな事は考えもしなかった。
いや、考えたことはある。が、「住めば都」なんだろうと思っていた。外の世界を知らないから、比較検討する事ができない。だから、どんな環境に居ても、自分は楽しめると、そう、「過信」していた。

年を重ねる毎に、一度しかない自分の人生で、やりたいと思ったことは、積極的に手に入れるようになっていた。
いや、そう心がけ、実行してきた。
考えりゃ簡単なこと。
「この土地の、この部屋で、一生を終える人生なんて、まっぴらゴメン」
そう思ってるなら、出ればいい。


さて、今年の夏も暑いかな・・・。